久しぶりのブログです
2023-05-19 15:20:00
FC西有家
某サッカー部の関係者ののコラムです。興味があれば読んでみてください。ちょい長文・・いやかなり長文ですが・・賢き親に「親も頑張ります」とか「絶対負けるなと子に言うのは小学校低学年まで」といわれることがありますが、それさえ、とんでもない大きな間違いだと言い切れます。 小学校低学年でも、そんなアホくさいことを子供にむかっていう親の子は、自分が戦うその意味が理解できないまま大人になっていくわけです。子の挑戦の弊害であり、子の「負けない心」をつくる役には一切なりません。 そういう親のストレスの玩具な環境で過ごした子は、思春期を迎えたり、新しい世界に直面したり、越えられぬ壁が出現する、その事あるごとに、厳しさを我慢して努力すること、負けを受け止めること、相手を尊重すること、自分の挑戦へのひたむきさなど人としての基本的な資質が欠落した大人になるんです。大切なとき、見てきました、自分の挑戦を見失う若者を。負けを経験させる。勘違いを身をもって気づかせる。そして泣きやんだ子の肩をそっと叩き、背なを押す。それが親です。負けて泣き歯を食いしばる経験を親は進んで提供するんです。上には上がいる世の現実を親は認知させるんです。進んで勝負で負ける子をほくそ笑んでみるのです。一緒に興奮したり、落ち込んだりするのは考え違いなんです。「彼自身の敗北」それは彼にとってとても幸せな事なんです。素敵な事なんです。それは自分は優秀だという幻想・認識誤謬をしない人間に育ててくれるのです。 だから、親が勝ち負けで、はしゃがないこと。カッカリしたり、ユニフォームを着て会場ではしゃぐ軽率な親はまさに大人として劣悪で、その子も同じ残念な人間に育てようとしているのです。自分の子への愛情を、正しく表現できないと知っている賢い親は、一歩下がって口を閉じ祈るのです(笑)。10年遡っても、近くは大島の親も伊東の親も國吉の親も、・・・・尊敬すべき人格持った我慢強い選手の親は、例外なく皆そうでありました。チームの勝敗についても常に一歩下がっていました。杉浦の母親などはまさに天然でした(笑)「あら、勝っちゃったの」と(笑)負ければ「まぁ残念でしたっ」と(笑) チームは親の個人的感情と全く違うところで戦っています。あなたの勝負ではもちろんなく、誤解を恐れず言うならば、あなたの子の勝敗でさえないのです。個人的勝利の願望など、子の活躍への期待など、一刻も早く捨て去ることこそ必要なのです。チームの勝利だからヒーローはいらないし、ミスを攻めることはない。いいプレーを賞賛し、叱咤しあい、一人のミスを全員でカバーする。 望むべきはチームの勝敗なのです。それが後ろ盾であり、応援なのです。そこを間違えると、瞬く間に決定的な勘違いに陥るのです。 もっといえば、チームの勝利さえ望まない方が優れているのかもしれません。チームがらしく楽しそうにプレーしてなかったり、全力を尽くしているように見えなかったならば、全力を尽くしている相手チームを応援できる、そんな余裕があれば、あなたは親として最高な人です。勝敗はレギュラーだけの勝負であると考えません。同時に試合に出たら幸せ、出なかったらダメだとも考えません。良きチームの親はそのことをよく知っています。 この年代にもなって、チームではなく自分の子だけを見ている親の了見は必ず子に伝わります。その利己性は似ます。 寮の親のミーティングで原田鉄平のお父様が親たちに向かって言いました。「大切だと思うこと。彼らは自分たちチームの目標に向かって、決まりを作り自分たちの意志約束で生活しています。そのことを尊重して親が馬鹿げた介入をしないこと。お願いします」と。そうなんです。そう言えることは彼らと子の変化を「星明子」のように見守っているからです。その時、鉄平の親父さんが坊主頭の星明子に見えました(笑) 親の考えはもっぱら「行動」によって子にそのまま伝わります。親にも指導者にもいるでしょう。自分の行動は脇に置いて、他事として批評をする。指導者や親は身をもって、意志で、生き様で、仕事で、すなわち「行動」で、「夢を持ち、その夢を実現すべく燃えることができるのは、全生物の中でも人間だけだ」ということを示すことが指導であり、子育てなのです。